~研究会とともに21年~ 私のひとりごと①

『ある人との出会いから』

「先生にお願いしたい」。
その電話が研究会の現在にまでつながるきっかけとなりました。
電話は、京都府中小企業団体中央会工業課主査の佐々木克巳さんから。
 平成10年3月頃のことでした。

 今、思えば、当時、小渕内閣の経済企画庁(現内閣府)堺屋太一長官が
「日本列島総不況」と言い放ち、健全な企業までもが必要な資金の調達ができない
「貸し渋り」の時代で、名前は忘れましたが、お笑いタレントで女性2人組の
「だっちゅうの」というギャグがやたら流行していました。

建設業界では、建設投資が低迷する中「財政構造改革の推進に関する特別措置法」

や「公共工事コスト縮減対策に関する行動指針」が出されるなど生き抜くための

低価格競争が激しさを増していました。
 

 その競争の煽りで欠陥住宅がマスコミを賑わせ、

下請け泣かせの構造がクローズアップされていました。

 そんな時代を背景に建設省(現国交省)の「平成10年度構造改革支援集

中指導事業」を京都府中小企業団体中央会が実施することになりました。
 京都府建築工業協同組合、京都左官協同組合、京都石材業協同組合、

京都府管工事協同組合、京都型枠協同組合、京都府瓦工事協同組合の

6組合と建築士会で構成する創造建築研究会が発足し、

「建設市場の構造の変化に如何に対応するか」を
テーマに1年間の研究活動を行い、その成果を各構成団体に

還元していくという主旨でした。

 佐々木さんは、その研究活動のコーディネーターを私にお願いしたい。
中央会も了解しているとのことでした。

 ナゼ私が?

当時も今でもですが、国の支援事業のコーディネーターや座長は大学教授など、

その道の専門有識者に委託されるのが常識でした。
 それなのに。ナゼ私が?ナゼ中央会が? 

 個人事務所の平凡な一市民の私に?

 今、思えば、それは、中央会やこの支援事業とは全く関係のない「ある人」との
「出会い」からはじまっていたことに気づかされます。
 
 平成2年、暑い夏の日の昼過ぎ、汗だくになりながら飛び込み訪問した事業所で

「ある人」に出会いました。30年程も前のことです。
「ある人」は公務員定年退職後、その事業所で事務局長として勤務されていました。

出会いから間もなくして退職されました。

 数年後、節分の日の壬生寺で山伏行者の一行の中に「ある人」の姿を見ました。

お礼も充分に言えなかった私は、手を合わせ頭を下げました。

 「ある人」とは誰か? 名前が思いだせないのです。
忘れないようにと書いておいたのに。どこに書いたかを忘れてしまいました。
 当時を知っている人にでも聞いてみるか。と。年輩のYさんに電話。
 「・・・何で今頃?何かあったんか?・・・30年も前のことやで・・・」
Yさんが訳(理由)を聞きたくなるのも当然です。
 聞き問いながら、電話の向こうで、思い出そうしているのが伝わってきます。
しばらく、間があって、「・・・思い出せんわ・・・」。
 あとは、枯れた昔ばなしに花を咲かせました。
Yさんとは、事業を継いだ息子さんを通じ、今も繋がっています。
 
 名前も思いだせない「ある人」との束の間の「出会い」が
協同組合京都健康住まい研究会の設立へと繋がっていくのです。      
                      (令和2年10月①記)
     つづく。

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