~研究会とともに21年~ 私のひとりごと③

~研究会とともに21年~ 私のひとりごと③

 「あれは、そういうことだったのか」。
数年・数十年後に「分かってくる」ことがあります。

「どうなるかは、説明できたけど・・・」、半邊常夫さんは、

京都府建築工業協同組合青年部で10年度事業の報告後、「どうするのかが分からへん」。
「分からへん」のはみんな同じでした。

 世界が動きはじめていたのです。
平成7年、「世界貿易機関(WTO)」が国連の関連機関として設立され、
グローバルな貿易の進展の枠組みができました。
まさに、黒船来航、中小企業のハンディキャップなし、自由競争の幕開けです。
 
 公共工事の一定規模以上の発注については、「内外無差別の原則」。
外国企業を日本企業より不利に扱ってはならないという原則ができました。
 この年、アメリカや韓国の企業を中心に83社の外国企業が

建設業の許可を取得しています。

 談合、そして元請下請の契約が、口約束や見積書だけだったり、

それも「どんぶり」勘定だったりしたことが問題視されはじめます。
 JR京都駅の工事でも元請け下請けの間で多くのドラブルが発生しました。
当時は、見積もりに際して、工事費内訳の明示の義務はありませんでした。
 その後、明示は努力義務となります。

 また、当時、建設業界の就業数は、全産業の約10%であるのに対し、

労働災害の死傷者数は、全産業の約30%を占め(平成6年旧労働省調)、

3K(危険・汚い・きつい)がマスコミの話題となっていきます。
それにともなって、「欠陥建物」や「品質性能」も問題視され、

一次・二次と下請に続く重層的な下請構造が、その原因とされていました。

 当時、大手ゼネコンだけでも500社を超える協力会社の親睦組織がありました。

清水建設の兼喜会(かねきかい)、鹿島建設の鹿栄会(ろくえいかい)、

大成建設の倉友会(そうゆうかい)、竹中工務店の竹和会(ちくわかい))などです。
これらが、重層的下請構造の象徴とされます。
 「竹中工務店から見積もりの依頼がきたんやけど?・・・」、
顧客のMさんから、「なんでやろ?」腑に落ちない声の電話がかかってきたのも

この頃のことです。
 経営事項審査を受けているMさんの情報(一部公開)をもとに

協力会社以外の「見積もり」依頼だったのかも・・・。


 また、平成7年は、コスモ信組、兵庫銀行、

大阪信組など金融機関の経営破綻が相次ぎます。

阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こり安全神話が崩壊した年でした。
 
 2年後、平成9年には、「日本版ビックバンと言われた

「金融改革システム法」が成立、「郵政三事業(郵便・郵貯・簡易保険)」の

民営化の議論が小泉純一郎厚生大臣(当時)の下で活発化し

平成19年に郵政事業は分割・民営化されます。 

外国資本が参入し、生産性の効率と合理化が叫ばれ、

「カ」(価格破壊)・「キ」(規制緩和)・「ク」(空洞化)

・「ケ」(系列破壊)・「コ」(国際化)の時代がやってきます。

 「○○○市から、仕事をしてくれと言われている?・・・」

「なんでやろ?」「どうすれば?・・・」、

ゼネコンでもない専門工事業者のUさんからも

腑に落ちない声の電話がありました。
 公共工事のコスト節減の世論が高まり、

随意契約や分離発注があったのもこの頃のことです。

 一方で、アメリカの建設工事の管理方式が参入してきます。
建設企業のCM(コンストラクション・マネジメント)です。
 CMは、設計監理・コンサルタントのノウハウで「請負」ではなく、

発注者の代理人として、発注者の利益を守るために、

品質、工程、費用の管理を行うという契約の方式です。
 この方式が、「顧客満足・顧客第一主義」の風潮の中で広がりをみせます。
設立後、研究会でもこの方式をシュミレーションすることになるのです・・・。

「欠陥住宅」の問題解決、「品質の性能」保証、

そして、「価格の透明性」などが、ブラックボクスと言われた業界の

「信頼」回復に必要不可欠なこととされます。

設立後、研究会で取り組むことなります。
 
 こうして、「カ」「キ」「ク」「ケ」「コ」が、

慣れ親しんだ今までの日本型社会の構造を変化させていきます。

「どうするのかが分からへん」。
 もう一つ大きな問題がありました。

「シックハウス症候群」です。
 オフィスビルや学校でも、「シックビルディング症候群」、

「シックスクール症候群」として世間を騒がせていました。

 高度経済成長期、建物の壁・床・建具などに、工業製品が使われ、

その建材から発生する化学物質(ホルムアルデヒド、トルエン、

キシレン等の化学物質)が、吐き気、頭痛、喘息、アトピー性皮膚炎、

肺機能障害などの症状の原因となっていたのです。

 平成9年、厚生省(現厚生労働省)が予防のためにホルムアルデヒドの

指針値(0.08PPM)を示しました。
 同時に、国交省が濃度基準と共に換気設備の設置を義務付けています。
が、先進諸外国の基準に比べたら甘く、また、

この基準は輸入製品には適用されませんでした。

「シックハウス症候群」は、「今」につづく現在進行形の問題と

なっているはず・・・なんですが?
 
 「平成10年度構造改革支援集中指導事業」は、

このような時代の「壁」、社会問題の「壁」に、

「如何に対応」するかの研究だったのです。

「どうするのかが分からへん」。
「分らへん」まま、平成11年8月27日、半邊常夫さん、

梅川功夫さん、清水仁さん、前林鉄治さん、

内藤利一さんが発起人代表となり、協同組合京都健康住まい研究会の

「認可」を京都府に申請することになります。

 設立趣意書には、「競争力のある自立型企業」、

「元下請負から、横請負型へ」、「健康住宅・自然素材」、

「完成工事保証」「京の家・京のまちづくり」など

社会課題が設立の目的とされていました。

 認可設立後、間もない平成12年には、中央会の支援を得て、
布野修司・京都大学大学院工学部生活空間学助教授(当時)、
則元京・京都大学木質科学研究所教授(当時)が委員に就任。
「平成12年度活路開拓ビジョン調査事業(活性化枠)」が実施されます。
『人と環境を活かす「健康住まい」づくりの提案』
~「健康住まい」組合仕様の策定並びに共同受注システムの構築~』
 この事業に、全会員が取り組みます。
平成13年3月、「どうするのかが分からへん」活動の方向性が示されます。
 
 朝日新聞、京都新聞が報道します。
KBS京都(現京都テレビ)では、当時、

人気の飛鳥井雅和アナウンサーのニュース番組で放映されています。
 また、後に、財団法人京都市景観・まちづくりセンターの

情報機関誌:ニュースレターでも紹介されることになります。
その後、平成13年3月24日、京新聞社文化ホールで、
【健康的な「住まいづくり」と「住まい方」】
~やすらぎを求めて・建築トラブルからシックハウス症候群対策まで~
をテーマにした「シンポジュウム」が開催されます。
 布野、則元、両先生をはじめ、

大阪市大生活学科部住環境学科の土井正助教授(当時)、

また、当時の欠陥住宅問題ネットワークからは、草地邦晴弁護士らが参加。 

本会からは、梅川功夫理事長(当時)、

上島均理事(当時)(アーキフィールド建築研究所所長)がパネラー。

会長の私(岩本昌信)がコーディネーターとして参加します。 

この「シンポジュウム」には、京都府、京都市、京都新聞社、

京都市景観・まちづくりセンター、財団法人京都SKYセンター、

KBS京都から後援名義の使用が承諾されています。
 今、思えば、欠陥住宅やシックハウスなど、

社会問題に取り組むスタイルが、「信用・信頼」のバックボーンとして

加速している時代でした。
 その「バックボーン」をつくり、会員事業所の「信用・信頼」に

繋げるサポートを会員相互で行うのが研究会という名の

「協同組合」設立時の考え方でした。 

それが「シンポジュウム」という、一つの「カタチ」になりました。
また、活動の主体が、京都府知事「認可」の「協同組合」と

いうこともあってマスコミ報道、公共機関の支援に繋がりました。
 余談ですが、「認可」には、いくつもの要件の「壁」があります。

申請には、府との事前相談が必要です。

事前相談で「門前払い」されることがあります。

府の手間を省くため中央会が間に入る仕組みになっています。
「ダメ出し」は、中央会の段階で行われます。
研究会も、当初「ダメ出し」の「壁」にぶち当たります。           

協同組合の基本的な要件、「経営基盤」の「壁」です。
その「壁」、実は、今も抱え込んだまま・・・。

毎年、認可庁の府に「事業報告」「決算報告」(義務)を行っています。

「今、思えば」、過去からの学びは、教訓として「今」に活きるのでは・・・。
                       (令和2年11月③記)
                           つづく

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